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近代洋画壇を牽引した一人、藤島武二の画業を辿る展覧会です

近代洋画壇を牽引した一人、藤島武二の画業を辿る展覧会です

『生誕150年記念 藤島武二展』が六甲アイランドにある神戸市立小磯記念美術館で開催中です。こちらの美術館は何年も前に黒田清輝の《昔語り》の下絵を見に来たとき以来かもしれません。素敵な美術館なのに住吉からの六甲ライナー乗り換えに足が遠のいてしまっておりました。このところ岡本神草木島櫻谷と明治期から昭和にかけての日本画家を観てきましたので、同じ時代を生きた洋画家として、この時代の日本の洋画壇を牽引した藤島武二とはどんな画家だったのかと出かけていきました。藤島武二といえば《黒扇》です。美術の教科書でなく、社会の教科書に黒田清輝《湖畔》と一緒に掲載されていなかったでしょうか。とても魅力的な作品です。残念ながら今回は展示されていません。(※所蔵館であるブリジストン美術館展がパリ・オランジュリー美術館で「ブリヂストン美術館の名品ー石橋財団コレクション展」として開催中であったため)

藤島武二は、慶應3(1867)に薩摩藩士の三男として時代の転換期に鹿児島に生まれます。母方は、江戸中期には狩野派の絵師を出した家柄でした。しかし、幼くして父を亡くし、二人の兄も西南戦争に従軍して亡くなってしまい10代で家督を継ぎます。初めは四条派の画家について日本画を学び、二度目の上京もしますが、洋画に惹かれていたのでしょう二十歳を超えて、デッサンなど洋画を学び、やがて明治美術会創立のメンバーの一人山本芳翠の画塾に通い始めます。明治26(1893)明治美術会第五回展に出品した《桜狩》(焼失)の習作が展示されていました。



《桜狩》(習作)1893頃 油彩・カンヴァス

67.0×42.5  鹿児島市立美術館

 

家族を養うために藤島は三重へ中学校助教諭として赴任します。明治美術会へも入会し、明治28(1895)には京都で開催された4回内国勧業博覧会《御裳裾川》という大作を出品しました。留学から帰国した黒田はこの博覧会のために京都に滞在し、文部大臣西園寺公望から東京美術学校西洋画科新設の相談も受けていました。翌年も《昔語り》制作のために京都に滞在していた黒田は、この間に藤島を三重に訪ねて美術学校の教諭へと誘います。翌明治29(1896)藤島は、東京美術学校西洋画科助教授に任じられ、同年黒田は「白馬会」を結成し、藤島も参加します。『新潮日本美術文庫28 藤島武二』の中で児島薫氏は次のように書かれています。「東京に戻るまでに藤島が洋画家としてすでに一人前の活躍をしていた。」とあり更に「黒田と出会ってから藤島は、まずそれまで学んだことをすべてすてさろうとしたかのようにみえる」とまでありました。確かに《逍遥》《池畔納涼》は、明るい色彩に光も溢れ、涼やかな雰囲気も漂い、主題にも黒田の影響を強く感じ驚きました。《池畔納涼》1898 油彩・カンヴァス 152.0×194.4 東京藝術大学


1901年から藤島は与謝野鉄幹・晶子雑誌『明星』の表紙絵や挿絵を担当するようになりグラフィックでの才能を発揮します。ラファエル前派やアール・ヌーボも取り込みながら抒情的なデザインを制作しています。

与謝野晶子『みだれ髪』が展示されていました。

鳳(与謝野)晶子『みだれ髪』1901 装幀 19.5×8.6  明星大学

与謝野晶子の処女歌集でもあり、恋愛を詠んだ内容と知って手に取り、“ジャゲ買い“した女性も少なくなかったでしょう。この時代の本の装幀や絵葉書は、甘く切なく、心揺さぶられるデザイン性を感じます。

同時期の作品がメインビジュアルとなっている《婦人と朝顔》 第9回白馬会展に出品されたとみられる作品です。

《婦人と朝顔》1904 油彩・カンヴァス 46.0×45.6 個人蔵


私には着物をはだけたのかと思いましたが、そうではなくギリシア風の髪型と衣服の女性が、何処を見るともなく、垣根に絡まって咲く大輪の朝顔を女性の回りに配した装飾的な構図で、ミュシャをも思い起こさせます。 明治期の浪漫主義的な絵画は、大正期の竹久夢二へと繋がっていきます。1905年白馬会創立10年紀念絵画博覧会に《天平の面影》を出品します。残念ながら今回は展示されていません。これを見てあらっ?と、女性が持つ楽器に目が留まりました。そう今年の正倉院展で目にした大破して残欠となった《漆槽箜篌》その大きな楽器「箜篌」をその女性は手にしています。私が知らなかっただけだったのでしょうか。藤島はどうしてこの楽器を持たせたのだろうと思いをはせました。そしてこの作品にみられる古代へのロマンは青木繁《海の幸》や神話の世界を描いたわだつみのいろこの宮 に影響を与えたようです。過去と現在を繋ぐ藤島の作品が、思いがけず私の中でも正倉院へと繋がりました。

東京美術学校西洋画科と白馬会を軌道に乗せ、遅ればせながら38歳にして文部省派遣留学生として渡仏します。この年に木下藤次郎によって雑誌『みづゑ』が創刊されたことも、この時期の日本洋画壇の状況を表す出来事のように感じます。

直に接する西洋画、それを培った西洋の歴史と文化を目の当たりにして藤島は衝撃を受けたのではないかと。日本で一通り知っているつもりであったとしても。藤島は黒田の薦めるラファエル・コランではなく、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエールという自由な雰囲気のある私塾に通います。後やはり本筋の「アカデミー」の重要性を感じてか、歴史画で有名だったアカデミー画家フェルナンド・コモンに師事します。イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイスなどを旅し、師コモンの紹介でローマのフランス・アカデミー院長のカロリュス・デュランのもとで勉強します。フランスとイタリアで西洋画の基礎を学んだのではないでしょうか。デュランは肖像画を得意としており、またイタリアで目にするルネサンス美術からも吸収するものは多くあったに違いありません。初めて目にする西洋の景色を描き、基礎となるデッサンをかっちり学び、多くの女性像を描きました。左:《チョチャラ 》 1908-9 油彩・カンヴァス 45.5×38.0 石橋財団ブリジストン美術館                 右:《イタリア婦人像 》1908-9 油彩・カンヴァス 64.9×55.0 東京藝術大学


滞欧期は、藤島の細部にとらわれずに本質をつかめという「サンプリシテ(単純化)」の教えと自己を把握せよという「エスプリ(精神)」の戒め、東洋と西洋の融合への思いを強くした時期であったでしょう。藤島の描く女性像に魅力が増していくように感じます。

1910年帰国と共に東京美術学校教授に任命されます。海外に長く滞在した多くが感じるように、藤島も公私ともに模索の時期を経験したようです。藤島が帰国した1910年は、武者小路実篤らが雑誌『白樺』を創刊し、韓国併合の年でもあります。

大正2(1913) 7回文展に出品した《うつつ》は三等賞でした。左:《うつつ》画稿  1913  鉛筆・紙  27.3×18.3  個人蔵(前期展示)                  右:《うつつ》1913  油彩・カンヴァス  64.0×52.0  東京国立近代美術館


藤島曰く「夢幻的な心境を描いてみたまでであった」と。うつつとした女性の顔に影を描き、わざと空間の奥行きを曖昧にして、留学中目にしたフォーヴィズムなどの新しい傾向を織り込んだ作品でしたが、帰国後の日本ではまだ受け入れ難かったのかもしれません。様々な思いを抱えた藤島は、留学を共にした有島生馬など若い教え子と共に文展二科設立の運動に加担しますが、結局黒田の慰留によって二科会創設には参加せず、文展に留まり審査員を引き受けます。皮肉にも美術学校や官展での藤島の地位が強化することとなりました。藤島は大正5(1916)10回文展に《静》を出品し、敢えて「装飾風の画である」とコメントしています。大正8(1919)1回帝展に10年も前の留学中のローマの街角を描いた淡いブルーのタッチが優しい《カンピドリオのあたり》を出品します。

《カンピオドリオあたり》1919  油彩・カンヴァス 各188.×94.4 2点組  大阪新美術館建設準備室





大正13(1924)黒田清輝が58歳で亡くなると、藤島は黒田の後継者としての責任と自負を感じたことでしょう。この年第5回帝展に《東洋振り》を出品します。女性の横顔つまり「プロフィール」をかっちりと描いた作品です。藤島は、「これが私の多少画期的な出発になっている」と回想した作品です。藤島はイタリアルネサンス絵画、特にピエロ・デラ・フランチェスカなどの作品から横顔の美しさを学んで描いたものです。ルーブルでのピサネルロ《ジネヴラ・デステの肖像》模写も展示されています。かっちりした横顔は日本にはなかったものなのでしょう。日本人モデルで日本でなく東洋的な美しさを表現しようとしています。現在所在不明の《芳恵》の下絵ともいわれる《婦人像》が展示されています。

《婦人像》1927 鉛筆・紙 28.2×24.0 個人蔵

モデルは《芳恵》と同じ佐々木カネヨらしく、彼女は「お葉」として竹下夢二のモデルで恋人として有名になった人物で、女横顔》のモデルにもなっています。

東西を融合した女性美を描こうとしたこの時期の女性の横顔が藤島武二を代表する作品と言えるのではないでしょうか。

昭和3年(1928)昭和天皇即位を祝う宮中学問所の油彩画制作を岡田三郎助とともに拝命します。日の出こそ最も日本を象徴するに相応しいと考え、10年もかけて日の出の風景を求めて台湾やモンゴルまで旅をします。この時期以降風景画が多くを占めるようになります。昭和12(1937)70歳で《旭日照六合》を完成します。この年に、横山大観らとともに第1回文化勲章を受章します。この年は盧溝橋事件が勃発した年で、時代はドンドン戦争へと進んでいく時期です。藤島の風景画からは作風は徐々に簡略化、抽象化の傾向がみられます。キャプションに「藤島の壮大な画業の到達点が示されている」と解説されている《耕到天》昭和13年(1938)第2回新文展出品作品です。「耕して天に到る」を表したものです。色面で構成された作品になっています。《耕到天》1938 油彩・カンヴァス 91.0×97.5 大原美術館


死の前年に神戸付近の風景を描いた《港の朝陽》が最後の作品だそうです。

3展示室では、美術館所縁の小磯良平との師弟関係を見る展示となっており、藤島と小磯が留学や戦争など同じような経験を積みながらそれぞれどのように表現したかを見比べることができるようになっています。共通項はデッサンの確かさではないかと感じました。

藤島武二展のブログを書くにあたり、藤島武二という洋画家を知ろうとすると、明治期の日本洋画壇において「黒田清輝」との関係性は避けて通れない存在の大きさを感じました。藤島に影響を与え、黒田の死後は藤島が後日本の洋画壇を牽引する立場となり、一方で黒田の影響から離れ独自の画風を確立しようとする藤島武二を感じました。




【開催概要】
・開催会場:神戸市立小磯記念美術館 HPは⇒コチラから
・会  期:2017年1118()2018128()
・休 館 日:毎週月曜日、
ただし18日(月・祝)は開館、19日(火)、年末年始(1229日~13日)
・開館時間:午前10時~午後5時(入館は午後430分まで)
・展覧会詳細情報は⇒コチラから
※美術館に移築された小磯良平のアトリエで開館日午前と午後にスタッフによる解説があります。
【参考】
・アート用語>藤島武二
『新潮日本美術文庫28 藤島武二』平成11110日 新潮社
・『生誕150 黒田清輝 日本近代絵画の巨匠』2016323 美術出版社
・美の巨人たち>藤島武二「黒扇」
・鹿児島市立美術館>生誕150年記念 藤島武二展

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ARTが好きなのか?美術館に行くのが好きなのかしら? 行きかけると拍車がかかって、前のめりになっている今日この頃かもしれません。 「知らない」「???」が増えるばかりです。
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MUSEUMコンシェルジュになりたいが、ARTには全くの素人。山間部育ち、専攻は「東洋史」、ただただ美術館へお出かけするのが大好きな私が、阪神間の美術展、アート関連施設やアートイベントなどについてアートへの思いを綴ります。つたない文章ですが、読んでくださる方々が、お出かけしてみようかなと思ってくださるきっかけになればと思っております。

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