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異容と威容な「夷酋列像」の文化人類学的、多角的、展示を楽しもう。

異容と威容な「夷酋列像」の文化人類学的、多角的、展示を楽しもう。

『夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界-』@国立民族学博物館(以下「民博」「みんぱく」)



『夷酋列像展』は、

20154月に開館した北海道博物館

国立歴史民俗博物館

国立民族学博物館の共同開催で、

最後の巡回地が民博です。

 

日曜美術館で井浦新さんが観に行って紹介されていたので、先生にお話を伺うまでは美術としての面だけが興味の中心になっていました。TVでは絵の大きさがイメージできない、とか、とても緻密に描かれ、色も鮮やかなので、どんな筆で描き、何に描き、どんな絵具を使ったのだろう?とか。そのような気持ちを持ちながら内覧会に参加しました。

そうです、私はここが「みんぱく」文化人類学の研究施設であることがすっかり抜け落ちておりました。

「夷酋列像」とは?

1789年(寛政元年)に北海道東端でアイヌと和人による「クナシリ・メナシの戦い」が起こった。この戦いを終わらすために松前藩に協力し、アイヌたちに戦いをやめるように説得した12人のアイヌの有力者を描いた肖像画です。1790年(寛政2年)異母兄の松前藩主、松前道広の命により、蠣崎波響(かきざきはきょう)が描きました。

藩の中で反乱が起こる事は、藩を管理しきれていない、藩の統治能力が問われることとなり、国替になることもあり得ました。松前藩は、12人を和人とは異なる「異人」であることを強調するかのように描き、屈強な彼らを鎮圧し、自分たちの統治能力に落ち度があったのではないことを伝えようとしました。つまり松前藩の広報戦略で描かれたものと考えられます。

しかし結局は1807(文化4)年に福島県梁川(やながわ)へ国替えになってしまいます。


 

『夷酋列像展』の展示構成は4章に分かれています。



1章:【夷酋列像の系譜】

蠣崎波響によって描かれた「夷酋列像」は、翌年、幕府のある江戸でなく、京都へ持ち込まれて評判を呼び、時の光格天皇の天覧に供することになりました。その後諸大名たちにより多くの模写が造られました。

その粉本や模写をここでは一堂に観ることが出来ます。多くの模写が作られたことからしてもその反響の大きさが分かります。

そこにはどんな関心があったのでしょう。勿論、蠣崎波響の高い技量から生み出された作品自体の持つ力と共に、そこに描かれた「異容な人物」や馴染みのない「物」への興味や北の「蝦夷地」への興味が多くの模写が作成される事となったのでしょう。

今回の呼び物はフランス・ブザンソン美術考古博物館所蔵《夷酋列像》11点です。12点のうち1点「イコリカヤニ」を欠いています。実際に観てみると、精緻に描かれ、保存状態も良かったのでしょうが、色彩が鮮やかで、「おっ、お~」と目を奪われます。精密な筆致と鮮やかな色彩は波響が学んだ「南蘋派」の特徴だそうです。しかし、拡大図を見るとその色の重ね方が若冲もビックリなのではないか!?と思ってしまいました。12人のポーズもユニークで、これは第2章の蠣崎波響が絵を学んだバックグランドにあるようです。ブザンソン美術考古博物館《夷酋列像》には、波響の叔父、松前広長が記した《夷酋列像序》も一緒に展示されています。この中で広長は「夷酋列像」制作の経緯をと、波響の図への賛辞も書いているそうです。松前広長は『夷酋列像附録』、「夷酋列像」の解説書の別冊本2冊も著しています。真筆と言われているこの11点「夷酋列像」を見てみると、11人の顔つきは似ています。波響の技量をもってすればもっとそっくりにも描けたはずですが、顔を写実的に描く必要性はなかったのです。それよりも一人一人が堂々とし、威厳高く、且つ畏怖の念をも抱かせる人物として描かれています。

それぞれの肖像画に記された名前も敢えて強そうな、



実際は、金で名前が書かれています。


恐そうな漢字を当てているそうです。

 

 

 

身に着けている武具、北方の交易からもたらされた毛皮や豪華な蝦夷錦、ロシアの外套を着て、更には靴や毛皮のブーツも描かれています。

長崎の出島からの交易だけではない、北東アジアの交易品を目にした諸大名たちはその豊かさに驚いたに違いありません。

現在は額装になっているブザンソン美術考古博物館所蔵「夷酋列像」ですが、もとはどうだったのでしょう?北海道博物館の右代先生によれば、今回も展示されている「広島新田藩藩士で南蘋派の絵師、小島雪〇(山へんに青)による模写、12図と序抜文2枚の計16面あり、木枠に納まり表裏から見る折帖形式」と同じ様な装丁ではなかったか?と伺いました。これなら屏風の様に立てて飾ることも出来ますし、画帖の様に折りながら眺めることが出来たでしょう。蝦夷地から上洛する際に木枠で頑丈で且つコンパクトに持ち運び出来る様にしたのではないかと話されておりました。

図録によれば、当時から松前と京都で波響が描いた2組が存在したとされていて、松前で「夷酋列像」を描いて上洛した波響は天覧のために「夷酋列像」を「浄写」したとされているそうです。この浄写の際には京でその絵具を調達したはずで、天覧用ともなれば京都でも一番良い絵具を使ったはずで、それでこんなにも今も輝きを失わない色彩となっているのではないでしょうか。

私は12枚と言うのが気になりました。「クナシリ・メナシの戦い」に協力した有力者のうち“12人”を選んで描いたのですよね。「12」つまり屏風の六曲一双屏風風です。北海道博物館 春木晶子学芸員が図録にも書かれています。前半の6点と後半の6点がポーズにおいても対応しており、前半6人は豪華な錦を纏う堂々たる姿であり、後半の6人も豪華な錦を纏いながらも、動物や毛皮製品とただ一人の女性『チキリアシカイ』で特徴づけられていると。

 

ブザンソン美術考古博物館所蔵「夷酋列像」の展示は4/19迄です。

模写の一つに肥前国平戸藩主、松浦静山が松前藩主道広から「夷酋列像」を借りて模写し「蝦夷図像2巻」があります。参勤交代で江戸で松前藩主道広と会って「夷酋列像」の借用を約束し、2年後の江戸詰めの折に道広が国元から取り寄せた「夷酋列像」を借りて模写したが、画工が忙しく模写しきれなかったとその経緯を記した書物も残っています。北海道と九州の藩主が参勤交代で江戸で情報交換をしているのも興味深いし、江戸では画工が忙しかったことも興味深く、また「彩色精細」で模写が難しかったことも波響の原図の技量の高さを物語るエピソードだと思いました。

4/21以降は民博蔵「夷酋列像図 」(以下『民博本』)が全面展開して展示されます。この『民博本』が民博所蔵になった経緯が「月刊みんぱく2月号」にありました。これがとても面白い。2003年に神保町の古本屋さんの展示即売会目録で民博名誉教授の大塚和義先生が見つけられ、 これは是非民博で購入したいと思われたそうですが、当時の民博では「美術品は収集しないことになっていたので、館内でも反対の声が上がった」そうです。これには驚きました。「これは美術品ではなく、200年前のアイヌ研究のための民俗資料として優れ、歴史学的、文化人類学的研究にとっても非常に重要な情報が込められている」と説明され、1年ほどもかかってようやく収蔵が決まったそうです。その後先生は民博で共同研究会「『夷酋列像』の文化人類学的研究」を立ち上げ、総合的研究を目指されてきました。これが今回の多角的展示へも繋がったと感じます

『民博本』の詞書は“松平定信”筆だそうで、松平定信と言えば、八代将軍吉宗の孫、前任者の田沼意次を批判し、寛政の改革を推し進め、幕府の財政再建に努めた老中です。更には「夷酋列像」が描かれるきっかけとなった「クナシリ・メナシの戦い」当時の幕府側の老中首座にあった人物です。「夷酋列像」を模写させたのは、老中辞任後ですが、定信は探求心旺盛な人物で学者肌でもあり、政治的、文化的関心から模写させたと考えられるそうです。

「夷酋列像」が何故フランス・ブザンソン美術考古博物館所蔵となったかについてはまだよくわかっていないそうですが、同書では、大塚先生の説が述べられてもいます。

何故江戸でなく、京都へ持ち込んだか?についても所説あるようですが、結果として、光格天皇の天覧に供し、これこそ最大の広報活動となり、幕府の耳にも入らないはずがありません。ひょっとして初めから「天覧」を意識して上洛したのかもしれませんね。



「夷酋列像」の諸本の比較などは、分かりやすいパネル展示があるのでご覧ください。

 

 

ブザンソン美術考古博物館所蔵「夷酋列像」は意外に小さく(40㎝×30㎝)細部をもっとよく観たい!とその願いに答えてくれるのが、この為に開発された「デジアタルコンテンツ」での自動閲覧システムです。高画質で精細な画面で大きくして観ることが出来ます。

 

2章【夷酋列像をめぐる人】

「夷酋列像」を描いた絵師としての蠣崎波響に注目し、「夷酋列像」をめぐる「人」の繋がりを探る展示となっています。蠣崎波響は、叔父の広長のすすめもあって10歳の頃江戸に出て、南蘋派を学んでいます。「夷酋列像」を描いたのは25歳の頃です。その時期にもうあれほどの技量があったことにも驚きです。「夷酋列像」は、波響がそれまでに学んだことを総合的に構築して出来上がったものといえます。中国古典の功臣像の構図を参考にしています。同時代の画僧月僊玄瑞の影響を受け月僊が描く仙人の姿も参考にしています。

波響が描いた【南蛮騎士の図】から波響が西洋画をも参考にしていたことが分かり、「夷酋列像」では衣の襞に陰影があるのが見て取れます。

一方12人の「夷酋列像」の眉は繋がっており、女性である「チキリアシカイ」を除けば他の11人は長い髭を蓄えています。この眉と髭の特徴は当時の人がもつアイヌのイメージであったようです。目も黒目が著しく小さい「三白眼」で描かれており、異容さが際立っています。功臣や仙人や騎士の様な威容が共存して描かれています。

「イコリカヤニ」の立ち姿は、私には役者絵の様でもあり、「決まってる!」と感じました。





上洛した波響は、円山派と交流を持ち、その写実と柔らかな筆致に惹かれたのでしょうか?円山四条派を学びその絵師たちとの交流は好きな絵を共有し楽しかったに違いありません。その後、波響は円山四条派風の絵を描いたそうです。年を重ね惹かれる絵も違って来たのかもしれません。大変な反響を得た「夷酋列像」ではあったけれど、藩命で描いたその絵の背景には悲しい戦いと多くの死があったことをどのように受け止めていたのでしょう。

3章【夷酋列像をめぐる物】

「夷酋列像」には過剰ともいえる様々な物が描かれ、12人は色彩豊かで装飾過多に描かれています。それは何を伝えているのでしょう。和人とは違う「異人」であることを強調しているのでしょうか。「夷酋列像」の12人は中国から渡来した高価な「蝦夷錦」を身に着け、「ツキノエ」と「イコトイ」はロシアの軍服と思われる外套を羽織っており、彼らは身分の高い人物であることも印象付けています。

「マウタラケ」はラッコの毛皮の上に座り、「ツキノエ」の椅子には熊の毛皮、「チキリアシカイ」は朝鮮毛綴の上に座っています。着ている物とは不釣り合いな靴にも驚きます。「ニシコマケ」の傍にはアザラシ皮の靴が置かれています。

後半の6人の内の4人は動物と一緒に描かれています。「夷酋列像」に描きこまれたものは、アイヌを通してもたらされ松前藩の蔵にあった物を波響が詳細に写生して「夷酋列像」に身につけさせ、小道具として描きこんだものです。



しかし、一方で、蝦夷錦の前の合わせを「左衽」 に描き、着物をありえない着方で着せて描くことで「野蛮性」「異人性」を表していることに悲しくも感じました。


 

 

 

鎖国下の日本では海外との交流は出島など九州の一部だけと考えがちですが、「夷酋列像」で描かれた物によって、蝦夷地を、アイヌを通しての北東アジア、北太平洋との交易・交流が見えてきます。大塚先生は「アイヌは誇り高きトレーダーとして、中国やロシアとの交易で活躍していた。」と述べておられます。

4章【夷酋列像をめぐる世界】

「クナシリ・メナシの戦い」が起きた1789年はフランス革命の年でもあります。市民革命によって世界が動き出します。鎖国状態の日本も、その沿岸は決して穏やかな状況ではなく、1792年には根室にロシア遣日使節ラクスマンが来航、1796年イギリス軍艦プロビデンス号が噴火湾に来航、1804年ロシア遣日全権大使レザノフ長崎来航・・・幕府は危機感を募らせ、対応に追われていく状況でした。

地図や当時の蝦夷地の様子を描いたものから、下記のポイントで見てみる、考えてみる。

1. アイヌの人たちは世界とどのような関係を持っていたのか。

 

2. 当時の為政者はアイヌを、蝦夷地をどうとらえていたのか。外国の情報収集。

⇒為政者たちは、蝦夷地を日本の領土であるとの意識を強めていった時代でした。

3. 一般の人たちはどうとらえていたのか。

4. 外国は、日本や蝦夷地をどのようにとらえていたのか。



北の視点から「人、物、世界」を通して日本も見てみようと問いかけられています。



 

ブザンソン美術考古博物館所蔵「夷酋列像」は4/19までの展示になります。この11全部が日本で揃って見られるのは次はいつになるかわからないよとおっしゃっておられるのを耳にしました。お見逃しなく!

図録を買うのはちょっと・・・と言う方には、今回何度も引用させて頂いた『月刊みんぱく2月号』特集『「夷酋列像」を読み解く』がお薦めです。民博名誉教授 大塚和義先生と民博の日高先生、佐々木先生の鼎談がとっても面白かったです。

みんぱくゼミナールに参加して、直に佐々木先生のお話を伺って「?」を質問してみてはどうでしょう。

特別展を観終わったら、是非本館も回ってみてください。回ってと言っても本館もとても広く東回りに地球を一周して日本に帰ってくることになります。そう一日あっても足りないかもしれません。

6/16からは30年ぶりにリニューアルする東アジアのセクションがお薦めです。



民博は今の時代にあって観覧料が凄く安い!民博の観覧券を提示すれば自然文化園も通行できます。毎週土曜日は、小学生・中学生・高校生は無料(ただし、無料観覧の日のみ、自然文化園を通行される場合は、自然文化園の入園料のみが別途必要です。)

観覧料について、詳しくはこちら民博HPをご覧ください。


万博公園内は自然もいっぱい!園内のお花も楽しめる!家族みんなでお出かけできそうです。

私としては、今も強烈なインパクトを放ちながら建つ太陽の塔の傍を通って、自然文化園内を歩いて民博まで行かれるのをお薦めしますが、

 

会期中は大阪モノレール「万博記念公園駅」から民博までシャトルバスも運行しています。

参考:「北海道」と名付けた人の記念館『松浦武四郎記念館』伊能忠敬、間宮林蔵は北海道の沿岸を調査したが、この松浦武四郎は北海道の内陸部を調査し、(所謂、フィールドワーク)多くの文書を残しているらしく、今回の展示でも紹介されています。

 

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ARTが好きなのか?美術館に行くのが好きなのかしら? 行きかけると拍車がかかって、前のめりになっている今日この頃かもしれません。 「知らない」「???」が増えるばかりです。
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MUSEUMコンシェルジュになりたいが、ARTには全くの素人。山間部育ち、専攻は「東洋史」、ただただ美術館へお出かけするのが大好きな私が、阪神間の美術展、アート関連施設やアートイベントなどについてアートへの思いを綴ります。つたない文章ですが、読んでくださる方々が、お出かけしてみようかなと思ってくださるきっかけになればと思っております。

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