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シーボルトは民族学博物館のパイオニアだった!!

シーボルトは民族学博物館のパイオニアだった!!

『よみがえれ! シーボルトの日本博物館』展が、巡回最後の開催地 国立民族学博物館で「開館40周年記念特別展」として始まりました。

シーボルトは日本人にとって馴染みの深い人物で、これまでも関連展覧会が開かれてきましたが、それはシーボルトの1度目の訪日1823(文政6)年~1828(文政11)年)で持ち帰り、オランダ政府によって買い上げられた現在のライデン国立民族学博物館所蔵の日本コレクションを中心としたものでした。今回の展覧会は、2010年から2015年に国立歴史民俗博物館が中心となった「シーボルト父子関係資料をはじめとする前近代(19世紀)に日本で収集された資料についての基本的調査研究」プロジェクトの成果のお披露目です。2回目の訪日でのミュンヘン五大陸博物館とフォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家所蔵の日本コレクションと資料を中心とした展覧会になっていることに注目です。

私たちは、医師としてのシーボルトやシーボルト事件など1回目訪日に引きずられて、「シーボルト像」を作り上げていたのではないだろうか?シーボルトがドイツ人であることをご存じなく、鎖国時代の日本に滞在し、シーボルトといえばオランダのライデン国立民族学博物館が思い浮かび、オランダ人だと思い込んでいる方もいるかもしれない。シーボルトの遺したものはそれだけではなかった。「そうだったのか!シーボルト。」な展覧会です。

鳴滝の家屋模型 ミュンヘン五大陸博物館蔵                ©Museum Fünf Kontinente, Munich (MFK)



1章は、シーボルトの生い立ちや人物像を紹介しています。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、1796217日にドイツのヴュルツブルクで生まれ、ヴュルツブルク大学で医学を修得する一方、博物学にも関心を抱くようになったそうです。1822年にオランダ領東インドで陸軍軍医少佐として勤務の後、翌1823(文政6)年出島オランダ商館付医官として来日しました。医師としての仕事とともに、日蘭貿易再建のために必要な日本の自然科学調査も本来の業務に含まれていました。オランダ領東インド総督ファン・デル・カペレンの支援で、調査収集のための潤沢な資金を得ることが出来、調査に必要な人材も雇うことが出来たということです。シーボルトの鳴滝塾に集まった門人たちに論文の課題を与えることで、弟子を通じて自らの日本研究としていたようです。1826年のオランダ商館長の江戸参府への随行は、調査収集の絶好の機会となりました。絵師川原慶賀も同行し、行く先々で目にした様々なものを描かせています。江戸への道中で目にした日本は、シーボルトには驚きの連続で、民族学的資料を精力的に収集しました。川原慶賀が描いた人物画は、影も描かれ西洋画の影響を伺わせます。1828(文政11)年、シーボルトの帰国船が台風のために長崎で座礁し、積み込まれる荷物の中から国禁の地図などが発見され、国外追放となりました。(所謂「シーボルト事件」です。)シーボルトが日本から持ち帰った資料は膨大なものにのぼり、私的にはそれに驚きでした。あれだけのものを持ち帰られては、列強の東アジアへの進出を背景としたこの時期に、「そりゃー幕府も警戒するでしょう」が私の率直な感想です。幕府天文方の高橋景保がシーボルトに渡した地図「カナ書き伊能特別小図」は没収となり、高橋景保は獄死してしまいます。が、その地図の写しを持って帰っていました。今回の調査研究においてシーボルト側資料で判明しました。その地図などの資料も展示されて、とても興味深い。

1830年に帰国したシーボルトは、3冊の著書の刊行を始めます。日本日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-に関する記録集」と副題が付けられ、日本の地理、歴史、風俗、人種、言語、動植物と広範囲にわたる資料集です。画期的な日本研究書ですが、未完に終わってしまいます。 『日本植物誌』は、手彩色のボタニカルアート、美しい冊子です。この刊行により日本の植物多様性に驚きが起こったそうです。アジサイは、最愛の日本妻オタキに因んで『オタクサ』と名付けました。(泣ける)『日本動物誌』長崎滞在中に動物標本も作成していたのですね。「甲殻類編」「哺乳動物編」「鳥類編」「爬虫類編」「魚類編」と長い年月をかけて分冊で刊行しました。棘皮動物や貝類は未完に終わってしまいました。

帰国後1932ライデンの自宅(現在のシーボルトハウス)で持ち帰った日本コレクションを公開しました。最初の日本博物館です。1838年には、コレクションはオランダ政府に買い上げられ、現在のライデン国立民族学博物館へ受け継がれています。この時すでにシーボルトは民族誌博物館の設立を目的としていました。

シーボルト事件の処分が解かれたことを知るとすぐにシーボルトは長男アレクサンダーを連れて幕末の日本へ向かいます。1859(安政6)年から1861(文久元)年夏までは和蘭商事会社顧問として長崎に滞在し、1861年夏からは幕府の顧問として江戸や横浜に活動の場を移しました。2度目の訪日では、1度目の収集の補完のもくろみもあり、収集するものにはほぼ目当てがあったものと思われ、精力的に収集しました。しかしその年の秋には解雇され、息子アレクサンダーを残して帰国します。かなり心残りであったことでしょう。

映像マッピング制作協力:公立はこだて未来大学



2回目のコレクションもオランダ政府に購入してもらうつもりで、帰国後すぐ1863アムステルダム産業振興会館で展覧会を開催しました。シーボルトによる日本展示の解説書が残っています。半年で2000人近くの来場者があったそうです。その様子を掲載した雑誌記事から「日本の宗教」コーナー展示が再現されています。日本人が見るとかなり違和感がありますが。


第2次コレクションをオランダ政府に売却した資金で長崎にオランダ学校を設立したいと考えていたそうです。オランダ国王にその意思がなく、シーボルトはコレクションを生まれ故郷のヴュルツブルクへ移しました。ヴュルツブルクのマックスシューレ(職業訓練校の一部)1864年から1865年まで展示を行いました。この間バイエルン国王にコレクションの売却と民族学博物館の設立を働きかけ、ヴュルツブルク市長からの退去要求もあって、ミュンヘンへ移ります。

18665月からはミュンヘンの宮殿内に展示することになりました。7つあるギャラリーの内3つの空間が日本展示となり、他に中国・インド・東南アジア・アフリカ・オセアニア・先史時代・アメリカなどの展示ケースが配されていたそうです。シーボルトが残した「シーボルト日本博物館の概要と構想」では、民族学博物館の展示を念頭に置いた意図を持ち、コレクションの概要を項目別に配する独自の体系をとっています。

シーボルトは、アムステルダムの展示の時から2つに分類しています。1類「学術的物品のコレクション」典籍・文献・地誌・版本・絵画・度量衡・拝礼・貨幣などの学術的資料。2類「工芸品及び民芸品のコレクション」衣食住関連品、美術工芸品、機能、用途、材質(原材料)も視野に入れた体裁をとっています。「恵まれた島国に住む注目すべき民族」と日本を紹介しています。実利的目的にも合致し、産業と密接につながり、貿易政策にも役立つとアピールしながらも、民族学博物館は教育の場でもあること忘れていません。

しかし、ミュンヘンでの展示が始まった秋に日本への再再訪を願いながら70年の生涯を終えました。残されたコレクションは、1874年にバイエルン政府により買い上げられ、1868年(奇しくも明治維新)に設立された民族学博物館(現在のミュンヘン五大陸博物館)の主要なコレクションとなりました。シーボルトが作成した展示目録に基づいて長男アレクサンダーが日本コレクションの目録を作成し、それはミュンヘン五大陸博物館所蔵のシーボルト・コレクションの基本台帳ともなっています。アレクサンダー目録には、1566件の資料が掲載され、展示順に番号が振られて、展示ケースの区切りも示されています。ミュンヘンの会場は、戦災で破壊され平面図も残っておらず、展示ケースの配置などの詳細を知ることはできませんが、リストにあるアルファベット「S」で始まる番号は、現在のミュンヘン五大陸博物館の整理番号と一致し、展示の流れを追うことが可能なため、アレクサンダー目録によって今回シーボルト最後の日本展示が再現されました。シーボルトの考える日本博物館が展開します。

多種多様膨大なシーボルト・コレクションですが、中でも15%を漆工芸が占めているそうです。西洋で“ジャパン”と呼ばれる「漆器」です。漆工芸が他国の追随を許さない日本を代表する工芸品と捉えていました。

漆工芸に限らず全てのものにおいて、美術的に価値の高いものだけでなく、一般に流通していたものまで幅広く収集して全体像を示そうとしています。多角的に日本を伝えるというシーボルトの姿勢です。当時あまりに一般に流通しすぎて、日本に残らなかったものもシーボルト・コレクションで見られるものもあるそうです。

1862年のロンドン万博の日本コーナーから始まる日本紹介展示や、その後におこるジャポニズムに先駆けてシーボルトは西欧において多面的に日本を紹介する展示を行っていました。1835年にバイエルン国王に提出した「民族学博物館設立の計画草案」において展示形態としても理念としても既に「民族学博物館」がシーボルトの中でしっかりと出来上がっていたことが驚きです。



2階展示場最後にはアレクサンダー目録に掲載されていないコレクションも紹介されています。なぜ目録から漏れてしまったのか?は、まだ解決できていないとのことです。今回展示されなかったシーボルト・コレクションもデジタルアーカイブとしてタッチパネルで検索できるようになっていますので、触ってみましょう。

シーボルト事件とそれに協力した人たちが厳しい処罰を受けたことにも挫けずに再来日し、「日本博物館」を作り、日本を総合的に知らしめたいという強い思いが伝わってきました。その思いを支えたのは何だったのでしょうか。

19世紀列強の東アジアへ進出と関心が高まる中で、シーボルトが西洋において多角的に日本を紹介していたことが今まで知られていなかったことの方が驚きかもしれません。

ドイツも二度の大きな戦争を経てもなおシーボルトの膨大なコレクションが今に伝えられていることにも感謝です。2016年は、シーボルト没後150年に当たり、シーボルトが再訪を強く願いながらかなわなかった日本へ、コレクションが里帰りしました。

10月まで2か月も開催している『よみがえれ! シーボルトの日本博物館』是非是非学生さんたちにお勧めしたい展覧会です。
【開催概要】よみがえれ! シーボルトの日本博物館
・会場:国立民族学博物館 特別展示館 HPhttp://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/special/20170810siebold/index
・開催期間:2017810()1010()
・休館日:水曜日
・開館時間:10001700(入館は1630まで)
・特設サイト:http://siebold-150.jp/
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【参考】何度見ても面白い発見がいっぱい!本館展示も是非!!!

拙ブログ“みんぱくってやっぱり面白い! 世界の多様性を知る。

 

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ARTが好きなのか?美術館に行くのが好きなのかしら? 行きかけると拍車がかかって、前のめりになっている今日この頃かもしれません。 「知らない」「???」が増えるばかりです。
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MUSEUMコンシェルジュになりたいが、ARTには全くの素人。山間部育ち、専攻は「東洋史」、ただただ美術館へお出かけするのが大好きな私が、阪神間の美術展、アート関連施設やアートイベントなどについてアートへの思いを綴ります。つたない文章ですが、読んでくださる方々が、お出かけしてみようかなと思ってくださるきっかけになればと思っております。

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