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ウィットとユーモアあふれる「河鍋暁斎」、しかしそれだけの絵師ではない!

ウィットとユーモアあふれる「河鍋暁斎」、しかしそれだけの絵師ではない!

This is Kyosai! ゴールドマンコレクション これぞ 暁斎 世界が認めたその画力』が美術館「えき」KYOTOで開催中です。

今回の展覧会はすべて「暁斎」に魅せられたコレクター「イスラエル・ゴールドマン」氏の所蔵作品で構成されています。

私が「河鍋暁斎」の作品を『河鍋暁斎展』として観たのは、2008年に京都国立博物館で開催された『特別展覧会 没後120年記念 絵画の冒険者 暁斎 Kyosai -近代へ架ける橋-でした。その時は、「暁斎」の画力よりもインパクトのある画題に衝撃を受けました。その後、各地で「暁斎」展が開催され、メディアの奇想ブームにも載って「暁斎」が再評価されているように感じています。

京博は、「ワカオキって誰?」と言われる2000年に『若冲展』を、2005年に奇想中の奇想の絵師『蕭白展』を、2013年に『狩野山楽・山雪展』を開催し、いつの時代もブームに先駆けて特別展を開催しています。

展覧会最初に展示されているのは、《象とたぬき》ゴールドマン氏が最初に買った「暁斎」の作品です。

美術商として一度手放しましたが、忘れられずに数年かかって買い戻しされた思い入れの深い作品です。

河鍋暁斎(1831-1889)は、7歳で浮世絵師 歌川国芳の画塾に入門しますが、どうも国芳が幼い暁斎にはまだ早すぎる処へも連れて歩いたりしたようで、

父親が辞めさせ、10歳で駿河台狩野派に入門します。

19歳という異例の若さで狩野派の修業を終えたそうです。

師 前村洞和が「暁斎」の画才を認めて「画鬼」と呼んだと伝えられており、

「暁斎」は狩野派修業時代から猛烈に画を学び、周りも驚くほどに画力を身につけて行ったのではないでしょうか。



幕末・維新の動乱期から文明開化の明治を生きた絵師です。1867年のパリ万博でジャポニズムが起こったフランスでは「葛飾北斎」が有名でした。「北斎」亡き後日本を代表する画家が「暁斎」でした。

明治3年に筆禍事件を起こして前科者であった「暁斎」に抵抗があった日本人よりも、明治初期に来日した外国人や「お雇い外国人」が「暁斎」を訪ね、多くの作品を本国へ持ち帰りました。それがそのまま海外の美術館に今も所蔵されています。イギリス人建築家ジョサイア・コンダーは「暁斎」に弟子入りし、ドイツ人医師ベルツは主治医となって「暁斎」の最期の時を見守りました。

「鴉」を描いた作品がずらりと並びます。描くテーマも多彩な「暁斎」ですが、「鴉」は「暁斎」にとっては特別な画題です。

明治14年内国勧業博覧会に出品した「鴉」の作品が最優秀賞を受賞し、それを日本橋の栄太郎本舗が暁斎のいい値の百円(通常の数十倍)で買い取ったことが話題になりました。また、ジョサイア・コンダーが持ち帰った「鴉図」が評判となって、100枚の「鴉」を注文したそうです。つまり「鴉」は「暁斎」を有名にし、世界に飛び立った「鴉」を思い「万国飛」と印章に刻み、「師思」の印は、鴉が絵の師であることをほのめかしているそうです。

画法の基本は狩野派の筆法に置きながらも、浮世絵はもとより、土佐派、円山四条派から西洋の技法までを研究し、画題に合わせていかようにも描ける画家でした。

「蛙」は、「暁斎」が3歳で最初にスケッチした画題で、お気に入りのモチーフです。擬人化された動物たちは「鳥獣人物戯画」を学び、様々なポーズをとるモチーフに不自然さがないのは解剖学まで学んでいたからだそうです。猫は最初の師 国芳のお気に入りですね。

左の《象》は、当時流行した揮毫、展示即売会の「書画会」で描かれたものなのか、輪郭線もなく、太い筆で筆数少なくササッと描かれ、象の鼻に下の畳が写っています。即興性を感じる作品です。

文久3年(1863)年江戸両国橋あった牝象の見世物に「暁斎」は出かけています。

その後、象を擬人化した《天竺渡来大評判 象の遊戯》という版画を 刊行しています。象に様々なポーズをとらせた様にも「暁斎」が動物の骨格や動態を理解していたからこそ描けたものだそうです。

 



月に手を伸ばす足長手長、手長猿と手長海老

手足の長い人物は「暁斎」の作品にはよく出てきます。

月を取ろうと手を伸ばす猿に更に手長海老を書き加えたところがミソ“です。

伝統的な画題に1つ足すことで可笑しみが増しています。

それが「暁斎」の技でもあります。

明治となって人の日々の生活で変化したもの、変わらないものも描いています。

新しい学校制度の教鞭をとって教える様子を《蛙の学校》や《鍾馗と鬼の学校》などに描いています。「暁斎」にとってはこの授業風景が 珍しく映ったのでしょうか。

《町の蛙たち》や《蛙の人力車》では、新しい乗り物の「人力車」を蓮の葉を車輪に、蓮の蕾と茎でできた電信柱で描いて、明治期の新しい風俗を描いています。五代目尾上菊五郎からの注文で描いた《幽霊》右目は銀色、左目は金色をしています。

隣の下絵は、妻の臨終の際にしたスケッチが元になっているそうで、妻の死に際してもスケッチせずにはいられない絵師の業も感じ、まさに「画鬼」。

下絵は着物の裾まで描かれていますが、本図では背景の中に消えています。「暁斎」の印にもご注目。印の下半分も消えかかっているのは「暁斎」の遊び心でしょうか。

幽霊に腰を抜かす男》に描かれた幽霊はどうでしょう。すぅ~と立ち現れた幽霊を濃墨と淡墨でサッと描き、「おっ、巧い!」

一休と地獄大夫》人気の高い画題で「暁斎」は何図も描いているようです、が、京博で右の作品を目にしたときは驚きました。三味線を弾く骸骨の上で一休さんが踊り狂ってる?こんなのありなのと。よく見ると右の作品には小さな骸骨が様々なポーズで踊っています。これが描けたのも西洋の人体骨格図を学んでいたからだそうです。骸骨好きな「暁斎」です。地獄大夫の打掛はとても細密に描かれています。右の大夫は七福神や鮮やかな珊瑚の柄で、左の大夫の打掛は地獄柄です。地獄も極楽も紙一重?朝から酒を呑み、1日一升を呑んだと言われる「暁斎」です。吞むほどに筆も勢いづき奔放に、人気のあった「暁斎」の作品には贋作も多いらしいのですが、酔った勢いで描かれた画は誰も真似できなかったらしい。明治になるころから絵日記を認めていた「暁斎」です。これは国会図書館のデジタルデータ(※【参考】参照)で見ることができます。事細かに日々の出来事を綴っています。これを見て「あれっ?似てる。」そうなのです山口晃画伯の「すずしろ日記」に何だか似ていませんか?

晩年には、仏教に帰依し「如空」の号を使いました。

山口晃画伯がウオーミングアップに奥様を描き、北斎が毎朝まず獅子を描いたように、「暁斎」は毎日観音様を描き、「日課観音」と呼ばれています。それがたまると寺社に奉納したそうです。

この《龍頭観音》は、その「日課観音」ではなく、絹本に墨、胡粉、金泥で丁寧に描かれた観音様で、コンダーの旧蔵品だそうです。ユーモアとウイットな作品だけでなく、優美な観音様も描く「暁斎」です。

画題が多彩で、表現方法も墨絵、版画、肉筆画と画題にふさわしいもので表現しました。「暁斎」の筆の冴えが伝わります。

貧乏神》のコレクターだった福富太郎さん、この《貧乏神》を手にしてキャバレーが2つ潰れたらしいですが、「暁斎」の画力を理解しない日本人には譲れないと、福富氏の「暁斎コレクション」はすべてゴールドマン氏に渡ったそうです。

表装は当初のままだそうで、継ぎはぎの軸装にもご注目下さい。

掲載写真は主催者の許可を得て内覧会で撮影したものです。


【開催概要】
・会場:美術館「えき」KYOTO
・開催期間:2017610()723() ※会期中無休
・開館時間:午前10~午後8

【参考】
  1. ・公益財団法人 河鍋暁斎記念美術館 HP・・・
  2. ・安村敏信 監修・解説『河鍋暁斎 暁斎百鬼画談』
  3. 『芸術新潮』20157月号
  4. ・国立国会図書館デジタルコンテンツ「暁斎絵日記」・・・
 

 

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ARTが好きなのか?美術館に行くのが好きなのかしら? 行きかけると拍車がかかって、前のめりになっている今日この頃かもしれません。 「知らない」「???」が増えるばかりです。
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MUSEUMコンシェルジュになりたいが、ARTには全くの素人。山間部育ち、専攻は「東洋史」、ただただ美術館へお出かけするのが大好きな私が、阪神間の美術展、アート関連施設やアートイベントなどについてアートへの思いを綴ります。つたない文章ですが、読んでくださる方々が、お出かけしてみようかなと思ってくださるきっかけになればと思っております。

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