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天正遣欧少年使節が目にしたもの

天正遣欧少年使節が目にしたもの

伊藤マンショからフェッラーラ侯爵アルフォンソ2世・デステに宛てた手紙



「遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア」が神戸市立博物館で開催されています。天正遣欧少年使節が、イタリアで辿った足跡を追いなが彼らが目にしたであろう作品を追体験する展覧会です。

支倉常長の遣欧使節団とごっちゃになっている人はいないだろうか?支倉常長は、通商の為にこの後江戸時代に入ってから伊達家が送り出した使節団です。(日本史の知識が特に怪しい 私はこの辺がこんがらがっていました)

「天正遣欧少年使節」は、それ以前に、信長の時代に派遣された少年たちです。西欧においてこれ以前の日本についての一般的な知識は、日本を訪れたことのないマルコ・ポーロが著した『世界の記述』(東方見聞録)の中の“ジパング“くらいだったのかもしれません。

国立国際美術館で開催された『クラーナハ展』は、ちょうどマルティン・ルターの宗教改革期の画家で、ルター夫妻の肖像画を描き、ルターの説を広める役割を担った画家でした。この宗教改革に対し、カトリック側の”反宗教改革”の中で、設立されたのがイエズス会です。ルネサンスや新航路の発見という時代背景と共に、イエズス会は中南米や東アジアへと伝道活動を広げます。

イタリア人イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、インドのゴア、インドシナのマラッカ、ポルトガル人居留地マカオを経て、日本に到着しました。西洋とは全く異なる生活習慣をもつ東洋において、ヴァリニャーノは、その地の伝統や諸習慣を尊重する 「適応主義」をもって伝道活動に当たり、また、積極的に日本人信徒を教育するために教育機関を設立しました。等教育機関のセミナリオを肥前と安土城のある近江に、コレジオ(大神学校)を豊後大分に、ノビシャド(修練院)を豊後臼杵に常設したそうです。ヴァリニャーノは、更に日本での布教活動を直接伝える手段として、また、西洋の世界を日本に伝えるために日本人信徒をヨーロッパに派遣したいと考えました。

有馬(現在の長崎県島原地方)のセミナリオで学んでいた優秀な少年4人を選び、キリスタン大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の名代としてヨーロッパに派遣されることになりました。天正遣欧少年使節正使・首席 伊藤マンショ、正使 千々石ミゲル・副使 原マルチノ、中浦ジュリアンの4と他3人の日本人が同行して、ヴァリニャーノと共に天正10(1582)2月に長崎を出発しました。インドのゴアでヴァリニャーノと分かれ喜望峰を回ってポルトガルのリスボンに到着したのが15848月です。2年半近くもかかっています。スペインでも国王フェリペ2世に謁見し、イタリアのトスカーナ地方の港町リヴォルノに着いたのは翌15853月でリスボンに着いてからも半年以上が経っていました。



以後5か月間、ローマ以北のイタリアをくまなく歴訪しました。

テルマロマエの作者ヤマザキマリさんは、著書『偏愛のルネサンス美術論』の中で、イタリアに留学中どこへ行っても「あなたより先にここを訪れた日本人が居た」と言われ、それが天正遣欧少年使節だったと書いておられていた様に思います。遥か極東からやってきた少年たちのことは、ヨーロッパじゅうに知れ渡り、その噂は先々へ先へと伝えられたようで、何処を訪れても手厚く歓待されたという事です。

それはただ遠くからやってきた見たことのない少年たちというだけでなく、彼らが自分の使命を自覚し、名代として相応しい人物像であり、立派な立ち居振る舞いであったからでしよう。

トスカーナ大公国のフランチェスコ1世はピサで彼らの為に鷹狩と舞踏会を催して歓迎しました。

舞踏会では、大公妃ビアンカ・カペッロが伊藤マンショの手を取ってダンスを踊ったという逸話が残っているそうです。日本では考えられない事です。1516の少年は、肖像画のままならば、西洋の豊満で美しく香水の匂いたつ女性に手を取られて冷静でいられたはずがありません。



 

鷹狩の様子を描いた壮大なタペストリー《布幕を用いた狼の狩猟》鷹狩よりもこんな大きなものが行く部屋いく部屋に吊るされていることに驚いたのではないでしょうか。今あっても私も驚きますもの。






今回の展覧会の呼び物の一つコジモ1世の宮廷画家ブロンズィーノが描いた《ビア・デ・メディチの肖像》おなかのあたりはぷっくりして可愛いのにどこか生気のない肖像画だと。

ビアは、コジモ18歳の時の子で、寵愛していましたが、56歳ごろに亡くなってしまい、死後にそのデスマスクから描いた可能性もあるそうです。父コジモの横顔を表したペンダントをしています。コジモは、この肖像画を側近くにおいて眺め、涙したことでしょう。

 

少年たちは、ローマに到着し、70日間もローマに滞在します。この間にローマ教皇グレゴリウス13に謁見し、キリスタン大名からの教皇宛書簡を届けることが出来きまた。中浦ジュリアンは病気のために教皇との面会が許されず、そのことを後々まで悔いたことだろう。既に高齢だったグレゴリウス13世は謁見の18日後に急逝してしまいます。次期教皇を選ぶコンクラーヴェトムハンクスの映画「天使と悪魔」で見た方も多いかもしれません、コンクラーヴェでのぼる煙を少年たちは目にしたかもしれません。

少年たちは次期教皇シクトゥス5の戴冠式にも参加したそうです。スペロン・ドーロ騎士勲章も授与され、ローマを離れる前にも教皇と最後の面会を果たしました。極東までカトリックの教えが広まっているという事を知らしめるという思惑があったにせよ、大変な栄誉に与っています。彼らの事は報告書として活版印刷術で多くの人が知る所となりました。

少年たちが目にしたものは教会の宗教画だけではありません。ルネサンス期の神話の世界を描いた女性の裸体画も目にしたことでしょう。どんな心持だったのでしょう。

チェーザレ・ヴェチェッリオ《サン・マルコ広場での聖十字架の行進》では、4人の日本の少年が観覧することが出来る様にと伝統的な祝祭が特別に数日間延期されたことが分かるそうです。街をあげての歓迎ムードです。




もう一つの重要な作品ドメニコ・ティントレット《伊藤マンショの肖像》元は、少年使節4人ともが描かれていたのではないかとあり、切断され単独の肖像画へとかえられたようです。マンショの物静かでしっかりした性格も描き出されているのではないでしょうか。写実的に描かれた自分の肖像を目にして彼らはどんな風に感じたのでしょう。2014年に確認されたばかりの日本初公開の肖像画です。

ヴェネツィアではゴンドラでムラーノ島へ渡り、ガラス工房も見学したようです。その繊細な造形に心奪われたかもしれません。

少年たちは行く先々で最上級のもてなしを受け、贈り物も受け取りました。彼らも贈物をを持っていたようで、日本製の着物や刀などを贈っています。西洋の甲冑や剣などは、絵画や色鮮やかなお皿や壷よりも少年たちには興味深かったかもしれません。

長いイタリアでの滞在を終えて、ジェノバからバルセロナへ向かい、再びスペイン王フェリペ2世に謁見しています。ポルトガルでは活版印刷の技術を学び、日本へ活字と機械一式を持ち帰えり、長崎でキリスタン版(宣教用書籍)が作成されましたが、その後の禁教にもかかわらず70点余りが日本内外で残存しているそうです。15864月リスボンを出港して、翌年の春にゴアに到着し、イエズス会学院で もともと語学が堪能だった原マルチノが彼らを送り出してくれたヴァリニャーノに感謝の演説を行ったそうです。逞しく成長した少年たちと再会したヴァリニャーノはどう感じたのでしょうか。このゴアにも1年も滞在し、マカオにも1年ほど滞在しています。その間に大友宗麟が亡くなった事や伴天連追放令の出た日本の事も聞き知っていたかもしれません。1590年夏に長崎に帰り着きます。翌15913月(天正19年)に秀吉に聚楽第で謁見し、多くの贈り物をを秀吉に献上しました。マントヴァ公などが贈った武器や武具は戦国を生き抜いてきた武将たちに披露されたかもしれません。チェンバロなどの楽器も持ち持ち帰り、秀吉の前で合奏し、とても喜んだ秀吉は3度もアンコールをしたと伝えられています。 5月には有馬晴信・大村喜前にローマ教皇からの勅書と贈り物を手渡し任務を終えました。翌年、4人そろってイエズス会に入会し、ノビシャドで学び続けました。しかし彼らを取り巻く状況はとても厳しいものでした。歴史に“IF”はありませんが、本能寺の変がなく信長が生きていれば・・・と状況は変わっていたかもしれません。



 

天正遣欧少年使節の教皇謁見に関する報告書




伊藤マンショからヴィンチェンツォ・ゴンザーガ公子に宛てた書状



 

 

 

 

 

 

 

 

中学生になったばかりの少年を送り出した母親の気持ちになってしまう私です。見送って後は、今の様にメールもなければ、SNSもスカイプもなく、少年たちの母たちは唯々神のご加護を信じ、祈るしかなかったであろうと。そして帰国した息子を前にした親の気持ちはいかばかりだったでしょう。

少年たちは、そのほとんどを海上の荒波に揉まれた閉鎖空間で暮らしています。8年後その使命を全うし、立派な青年となって帰国しますが、彼らを待ち受けていたその後の人生は決して容易いものでなく、過酷ともいえるものでした。彼らはその現実をどう受け止めたのでしょうか。受け止めきれたのでしょうか。

今回も歴史というものを考えさせられた展覧会です。



【お知らせ】
ARTことはじめでは、この展覧会の鑑賞ツアーを5/24(水)開催!!
是非、ご参加ください。詳しくは⇒こちら
【開催概要】
・会場:神戸市立博物館
・期間:2017422()717(月・祝)
・休館日:月曜日、ただし717(月・祝)は開館
・開館時間:930分~1730分、ただし土曜日は19時まで・※入館は閉館の30分前まで。
・公式HPはこちらから
【参考】
・支倉常長について:
・天正遣欧使節として派遣された4少年の帰国後の人生:

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ARTが好きなのか?美術館に行くのが好きなのかしら? 行きかけると拍車がかかって、前のめりになっている今日この頃かもしれません。 「知らない」「???」が増えるばかりです。
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MUSEUMコンシェルジュになりたいが、ARTには全くの素人。山間部育ち、専攻は「東洋史」、ただただ美術館へお出かけするのが大好きな私が、阪神間の美術展、アート関連施設やアートイベントなどについてアートへの思いを綴ります。つたない文章ですが、読んでくださる方々が、お出かけしてみようかなと思ってくださるきっかけになればと思っております。

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