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建仁寺と海北友松展@京都国立博物館

建仁寺と海北友松展@京都国立博物館

海北友松展も後期に入りました。後期展示への再訪前に建仁寺へ寄ってきました。Twitterで建仁寺へ行くといいよと教えて頂いたのです。

建仁寺は「友松寺」ともいわれるほどです。建仁寺は、花見小路の先にあり、両足院の若冲の鶏も見に来たことがあり、友松の龍も確か以前も見た記憶が微かにあるが・・・

今回は「海北友松展」@京都国立博物館(以下、「京博」)2階で一度、大方丈障壁画を観てきたので、なるほどこうなっているのかと吞み込める気がしました。

展示室での展示では、大方丈の配置図もありましたが、襖が入っている空間に座して眺めるのはどうでしょう。

障壁画は、大方丈内部5室に真・行・の画体で描き分けられています

礼之間に「雲龍図」、書院之間に「花鳥図」、室中に「竹林七賢図」、檀那之間に「山水図」、衣鉢之間に「琴棋書画図」、

と言われても、大方丈の構成がすぐに頭に浮かぶ人は多くないはず、私もそのひとりです。

現在の建仁寺の襖は、栄西禅師800年大遠諱記念事業で作成された高精細デジタル複製となっていて、十分その雰囲気は味わえるのではないでしょうか。且つ、複製なので写真もOKでした。

建仁寺は、天文21年(1552)兵火により全山焼失し、再興なったのは慶長4年(1599)に東福寺の瑶甫恵瓊(ようほえけい)が安芸の安国寺の建物を移築させたそうです。半世紀ぶりに再興なった寺の顔ともいうべき方丈の障壁画を任されたのが海北友松でした。勿論、すでに描いてきた建仁寺の塔頭で障壁画の腕前を買われての事ではあるのですが、先に拙ブログでも書きましたようにここにも友松の交友関係がみてとれます。友松が建仁寺の塔頭に障壁画を描くことになった時には、細川幽斎との関係が見られ、大方丈障壁画では、瑶甫恵瓊が幼き時に友松が過ごした東福寺の住持であった事や、友松が博多まで同行した石田三成と瑶甫恵瓊が懇意の中であった事、瑶甫恵瓊も豊臣政権の一大名でもあった事などを知ると益々興味深なってきました。

京博に展示されているのは、軸装になったものです。襖絵のはずが・・・これは昭和9年(1934)の第一室戸台風で建物が倒壊し、それを機にすべてが掛軸に改装されたためだそうです。その完成を記念して、京博の前身恩賜京都博物館で昭和14年に海北友松の大回顧展を開催されたそうです。

大方丈裏手から茶席「東陽坊」へ行くことが出来ます。天正15年(1587)秀吉の北野大茶会の折、千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が担当した副席と伝えられているそうです。ここでも「あれ?」この真如堂東陽坊長盛は、友松の親友の一人でした。もうもう一人の親友斎藤利三は、明智光秀の重臣で、本能寺の変後に処刑された際に、その遺骸が晒される前に東陽坊と友松は刑場から利三の遺骸を奪って長盛の真如堂に葬ったというのです。刑場では友松は長槍を振るったとあり、この武勇譚が史実なのかは甚だ???らしいですが、武士としての友松の一面を見るようです。この斎藤利三の娘が、徳川三代家光の乳母春日局なのです。

建仁寺の法堂の天井画には、平成14年(2002)に日本画家小泉淳作が「双竜」を描いています。この天井画も写真にOKでした。

「誤落芸家」と語っていたと伝わる友松ですが、建仁寺大方丈障壁画で成功を収めます。

息子の友雪は手伝ったかもしれませんが、狩野派や等伯の様に工房制作でなく、独自の画風を突き進んでいった「孤高の絵師」だったようです。

連休あけから会期末まで曲線の美しい《浜松図屏風》と直線を基調とした《網干図屏風》二双の金碧屏風が並んで展示されます。この煌びやかで典雅な二双に会いにもう一度京博を訪れたいと思っています。

海北友松展 チラシ裏面



【参考】
・建仁寺HP・・・こちらから

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ARTが好きなのか?美術館に行くのが好きなのかしら? 行きかけると拍車がかかって、前のめりになっている今日この頃かもしれません。 「知らない」「???」が増えるばかりです。
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MUSEUMコンシェルジュになりたいが、ARTには全くの素人。山間部育ち、専攻は「東洋史」、ただただ美術館へお出かけするのが大好きな私が、阪神間の美術展、アート関連施設やアートイベントなどについてアートへの思いを綴ります。つたない文章ですが、読んでくださる方々が、お出かけしてみようかなと思ってくださるきっかけになればと思っております。

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