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永徳、等伯、山楽に並ぶ桃山の絵師 “海北友松” ただものではなかった!!

永徳、等伯、山楽に並ぶ桃山の絵師 “海北友松” ただものではなかった!!

そう言う事だったのかと思いました。つまり、京都国立博物館(以下「京博」)では、

2007年に「狩野永徳展」            狩野永徳(1543-1590

2010年に「長谷川等伯展」            長谷川等伯(1539-1610)

2013年に「狩野山楽・山雪展」            狩野山楽(1559-1635)

2015年に「桃山時代の狩野派展」            狩野山雪(1590-1662)

と開催されてきて、10年にわたる桃山絵師シリーズの“トリ“を務めるのが「海北友松」(1539-1610)です。

時の権力者と結びつき、盤石な狩野派を確立する永徳、「これぞ狩野派!」の絢爛豪華な障壁画に圧倒され、狩野派に対抗すべく台頭しながらも息子久蔵を喪い、「松林図」の咽び泣きを聞きた等伯、確かに濃かった「京狩野」山雪の《雪汀水禽図屏風》駒落としの水鳥とメタリックな波肌に言葉も出なかった私です。その度に流石「京博、間違いない!」と感じてきました。

さぁ、愈々”おおとり”の登場で私の期待は膨らむばかりでした。

「海北友松」と聞いてまず思い浮かぶのは「建仁寺」と「雲龍図」ですね。

しかし、それだけではない「海北友松」を時系列に紹介する「大回顧展」です。

京博はキャプションも上手いし、観せる展示となっています。(べた褒め感ありですが、私はそう感じています。)良い展覧会は、ブログを書いていても、作品を、展示会場を思い出し、ドキドキします。お伝えしたいこと沢山あり、少し長くなりそうでが、お付き合いください。

遅咲きの絵師「海北友松」、鍵は交流関係にあり。私の一番の感想です。

今回展示されている作品のほとんどが、「友松」還暦を過ぎてからの作品です。

それは何故なんだろう?

「海北友松」は、近江浅井家の重臣で「家中第一の剛の者」と呼ばれた海北綱親の子として生まれましたが、3歳にして父が討死。五男とも三男とも言われている「友松」は、幼くして東福寺に喝食(有髪の小童)として入りました。

同じ様に戦国武士の子であった「岩佐又兵衛」や「狩野内膳」とは違い、物心つく前にお寺に入ったことは大きな衝撃を直接受けることなく育ったのかもしれません。主家浅井家や兄弟も信長に滅ぼされたのは、友松41歳の頃で、ここで還俗して狩野派の門を敲いて絵師として生きるようになったと伝えられているそうです。(絵師になったので還俗したとの説もあり)友松の謎多い前半生を教えてくれるのが、《海北友雪筆 海北友竹賛 海北友松夫妻像》と《海北家由緒記》です。友雪は、友松の子で、友竹は孫、この賛や由緒記は、友松の死後何年も経ってから書かれたものでちょっと眉唾の箇所もあるらしいのですが、書き下し文もあるのでこちらも読んでみて下さい。なんだか幸せそうなお二人《海北友松夫妻図》は、妻が着る紋付は“三葉葵”紋で、小袖と共に春日局から拝領したものらしいです。徳川三代家光の乳母春日局と友松の関係も面白く、書き出すときりがありませんが、友松の子・友雪の不遇を救ったのも春日局とか。友松60歳以前の作として展示されている《山水図屏風》など岩の描き方など、なるほど狩野派!とも感じます。左隻にはテーブル状の土坡(ドハ)が描かれ、友松がよく描くアイテムだそうです。

《柏に猿図》当時の日本人が大好きな牧谿の「猿」、思い出すのは等伯の「枯木猿猴図」ですが、友松も描いていました。この作品に描かれている大きな木の幹が途中でふっと消えてしまっています。れも「海北友松」の描き方の特徴だそうです。

狩野永徳が過労死ともいえる様に突然亡くなり、それを機に友松は狩野派を離れたのではないかと、友松既に58歳です。

友は友を呼びの交友関係。⇒ (参考)

友松には二人の親友が居ました。明智光秀の重臣斎藤利三(1534-1582)真如堂塔頭・東陽坊住持で利休の門人であった長盛(1515-1598)斎藤利三は、本能寺の変後に処刑されます、その娘が上記「春日局」です。長盛は吉田社の祠官・吉田兼見と茶友、吉田兼見と細川幽斎とは二重の姻戚関係にありました。《源氏物語絵詞》画は失われていますが、詞と奥書は公家の中院通勝(1556-1610)、画は海北友松。この時友松60歳です。

この通勝は、右大臣中院通為の子、「正親町天皇の勅勘を被り出奔」(叱られて都落ちというところでしょうか)丹後の細川幽斎の元で19年も過ごしていました。この間に当代きってのインテリ幽斎から古今伝授 を受けています。幽斎と友松が繋がるハイソな公家サロンが見えてきます。

友松は秀吉の前で席画したという記述もあり、秀吉が上杉景勝に友松筆《濃彩松鳥画屏風》一双を贈っていたり、伏見城障壁画も制作したりと時の人秀吉との繋がりも見えてきます。秀吉側近の石田三成とは博多までの旅に同行しています。

建仁寺の塔頭の障壁画制作以前に友松はそれなりの絵師として認められていたことが伺えます。友松と建仁寺の関係は塔頭に描くことから始まったようです。そこにも友松の交友関係が見え、建仁寺には幽斎の甥 英甫永雄(えいほようゆう)がおり、その繋がりから建仁寺へ出入りできるようになったと考えられるようです。大中院《山水図》から禅居院《松竹梅図襖》へドンドン友松は自分の画風へ昇華していきます。



建仁寺方丈は天文21(1552)兵火により灰燼に帰し、再興されたのが慶長4(1599)です。方丈障壁画52面(現50面)を水墨画で友松は描くことになります。塔頭での実績が評価されての事と考えられます。友松67歳です。展示室に入って観る者に飛び込んで来る龍、逆巻く雲から迫りくる阿と吽の龍です。水墨だけで描かれ、それも一気に躊躇なく描かれた様に感じます。礼之間に通されてここに座してみれば・・・と想像するだけでもゾクゾクしてきませんか?

礼之間に「雲龍図」、書院之間に「花鳥図」、室中に「竹林七賢図」、檀那之間に「山水図」衣鉢之間に「琴棋書画図」、真・行・草の各画体で描き分け、画題も友松お得意のものを選んでいます。

「山水画」は、ほぼ余白、玉澗の画法によるものですが、ターナーを先取りしたような感があります。

「竹林七賢図」は、人物が大きい!永徳が創始した大画人物図の影響を受けているらしいのですが、近接拡大化が増しているそうです。衣を膨らませて描いたり、袖をことさら大きく表したりと衣が風をはらんで膨らんだように見える友松特有の人物表現で袋人物と呼ばれています。

「琴棋書画図」は、淡彩を施し、他と比べてきちっと描かれています。「琴棋書画図」この展覧会では何度もお目にかかる画題で、友松はこの画題がお気に入りだったのが、晩年には《婦女琴棋書画図》まで描いています。建仁寺方丈画以降友松の画風が、図録では「軽妙」「瀟洒」と書かれていますが、私は70歳にもなろう友松に余裕が、もっと自分の筆のままにが出てきたのではないかと感じました。

しかし、私は次の部屋に入り更に驚く画を目にしました。《網干図屏風》です。友松は、八条宮智仁親王家に出入りするようになります。智仁親王は幽斎から文芸を教わっていたので、その繋がりで幽斎や中院通勝と一緒に出入りするうちに、「宮好み」な品の良い金碧屏風を大和絵の主題や技法で描いています。主役は「干し網」網を細部まで描きこみ、更には濡れた部分と乾いた部分を胡粉で描き分けています。右隻の芦は青々と、左隻の芦は冬がれて、右から左へと季節の移ろいも感じさせます。上に描かれた海は黒で横に刷いた様に描かれ大胆さも、緩急もあり、瀟洒な感もあって、注文主に合わせて描ける技量ということでしょう。後期には《浜松図屏風》が展示され、楽しみです。




友松最晩年に近くに描いたのが妙心寺の金碧屏風です。最晩年近くでこのゴージャスな絵が描けるとはと、展示室に入って目にする《花卉図屏風》右隻の牡丹の華やかなこと、一輪一輪が生き生きとして思わず「綺麗」とこぼれます。左隻の梅の枝はまるで龍の髭の様な動きのある表現になっています。「妙心寺屏風」と呼ばれるこれらは漢画の手法で描かれているそうです。ちょっと緩くなってきたかな?と思わせての、このどんでん返しです。

お得意の「琴棋書画図屏風」では、碁盤の上に琴をのせてその上で頬杖をついて居眠りする姿もあり、《寒山拾得・三酸図屏風》描かれる人物は飄々としてユーモアが漂っています。

海北友松の龍は、お隣朝鮮にその評判が届くほどでした。友松の描いた雲龍ばかりの展示室は照明を落として龍にスポットライトが当たる演出効果もあって、龍が浮き上げって見えてきました。龍の名手として知れ渡り、多くのところから描いてほしいと注文があったであろうと。最晩年期の友松の押絵は、人気があったらしく天皇や宮家、寺院や武家、不富裕な町人まで受容されたようで、ひょいひょいと描いた、確かに晩年を感じさせる画です。そこに味があってよかったのでしょう。「海北友松」は、ガツガツした所が感じられない、それは幽斎を円の中心とした公家などとの交友関係の共通項が「文雅を愛でる」ことにあったからででしょう。

この展覧会最後の展示は、友松最晩年期の《月下渓流図屏風》60年ぶりに里帰りした作品です。雄渾な雲龍図や金碧屏風を観てきた目には余りにも静かな世界です。詩情あふれる静謐な世界。海北友松が行きついた先はここだったのでしょう。ただただ立ち尽くす。「日本的水墨画の完成を告げる等伯《松林図》と同等の位置づけがなされてしかるべき」とありました。

3階の初期から始まる展示が、階を降りていくごとに、画風がこうも変わるのかと驚き、場面転換のようで、「うーん・・・」と唸るしかない。超ご期待ください!!

会期は36日間しかなく、京都だけの展示です。これだけの「海北友松」を目にする機会は次はいつなのか?

【開催概要】
・京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会「海北友松」HP
・公式サイト:
・会期:2017411() 521()
・休館日:月曜日
・開館時間:午前930分~午後6(金・土曜日は午後8時まで)※入館は閉館の30分前まで。
※会期中展示替えがあります。
・主な展示替:前期411日~430日/後期:52日~521
・出品一覧・展示替予定表 ⇒ 
【参考】
・葉室麟 著『墨龍賦』図書館の予約がまだまだで残念ながらまだ読んでいません。
・「海北友松展」のチラシも豪華!中折の説明も詳しいので是非ご参考になさってください。
☆2017年4・56月号にも詳しく解説されています。

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ARTが好きなのか?美術館に行くのが好きなのかしら? 行きかけると拍車がかかって、前のめりになっている今日この頃かもしれません。 「知らない」「???」が増えるばかりです。
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MUSEUMコンシェルジュになりたいが、ARTには全くの素人。山間部育ち、専攻は「東洋史」、ただただ美術館へお出かけするのが大好きな私が、阪神間の美術展、アート関連施設やアートイベントなどについてアートへの思いを綴ります。つたない文章ですが、読んでくださる方々が、お出かけしてみようかなと思ってくださるきっかけになればと思っております。

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