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飛鳥美人に会いに行く。『国宝 高松塚古墳壁画修理作業室 公開』

飛鳥美人に会いに行く。『国宝 高松塚古墳壁画修理作業室 公開』

1月末、寒い日が続く中でその日は晴天で明日香村を歩くと汗ばむほどのぽかぽか陽気でした。『平成28(16) 国宝 高松塚古墳壁画修理作業室 公開』の参加者募集のチラシを手にしたのは昨年の年末だったか?年末の忙しさにかまけて一次募集を逃し、年明けて5日の二次募集にすぐに応募しました。高松塚古墳壁画作業室を目にするのは初めてではないような気がします。以前来た時にガラス越しに見た記憶が微かに残っています。

東洋史が専攻だった私は、「東西交渉史」にも興味があり、ゼミの先生から松本清張の『火の路』を薦められました。“火”とは「拝火教」つまり「ゾロアスター教」の事です。唐代の長安の街は、国際都市でシルクロードを通って西から多くの人や物が流入し、暮らし、彼らが信仰する宗教も受け入れられていました。そんなゾロアスター教の信仰、儀式が明日香までもたらされていたという清張さんの大胆な発想から生まれた小説だったと思います。そこで私は卒業旅行に華々しく海外ではなく、明日香村を訪ねました、遠い遠い昔です。

そのずっと後に、キトラ古墳壁画が、飛鳥資料館 で公開されると知り、四神を“視る“ために2度ほど明日香村を訪ね、亀バスで明日香村を回った楽しい思い出があります。

『平成28(16) 国宝 高松塚古墳壁画修理作業室 公開』は、作業見学室に入れる人数が限られているために、時間指定制でした。近鉄電車で、西大寺で乗り換え橿原神宮でも吉野行に乗り換えて飛鳥まで2時間ぐらいかかったでしょうか。飛鳥駅から「国営飛鳥歴史公園館」までは徒歩で10分ほどです。ワクワクで足取りも軽い!川の欄干にも四神が描かれています。

「高松塚古墳」の発見発掘の詳しい経緯については⇒コチラをご覧ください。

以下、経緯については先のHPからの抜粋です。

正式に発掘が始まったのは昭和47年(1972年)3月、もうずいぶん昔、日本が高度経済成長の真っ只中の頃でしょうか。(大阪万博は、昭和45年、第一次オイルショックは昭和48年)

最初の発見は、世界中どこでも何故か村人が畑を掘っていたところ・・みたいなお話です。正式には昭和45年道路建設の為に事前調査をしていると・・・で、昭和473月には、発掘が始まり、すぐに極彩色の壁画が発見されました。326日には、新聞発表され、日本中が大騒ぎ。新聞や週刊誌各紙は、そのニュースでもちきりだったことでしょう。昭和49年(1974年)には、国宝に指定されました。「壁画は現状のまま現地保存することになり、文化庁が石室内の温度や湿度の調整、防カビ処理などの保存管理、そして1981年以降年1回の定期点検を行ってきました。」この時代はまだまだ環境管理の意識も技術も知識も低かったのでしょう。「2002年から2003 年にかけて撮影された写真を調べた結果、雨水の浸入やカビの発生などにより壁画の退色・変色が顕著になっていることが2004年に明らかになりました。」こんな壁画の状態は、2004年6月20日の朝日新聞のスクープによって一般に知れ渡る所となったそうです。このニュースは衝撃的だった記憶があります。1300年間壁画が極彩色のまま守られてきたものが、ひとたび扉を開けたなら・・・1300年後の外気が流れ込み、黴で覆われることとなってしまったとは。守られてきた1300年という時間にも感動です。「墳丘の発掘調査と石室の解体修理は2006102日に開始されました。」「石室はいったん・搬出した後、この修理施設へ移され、修復が行われています。 移動された壁画は10年間かけて保存修理が行われ、修理完成後はもとの古墳へ戻される予定になっています。」そう先々では、また古墳へ戻されるのですね。なんだか、胸が熱くなります。

受付を済ませて、集合時間までに時間があったのでトンネルを越えて高松塚古墳まで行ってきました。こんなにもきれいに整備されていたかしら?と。ここにかの壁画があったのかぁ。と。集合場所では、壁画の解説映像が流れ、タッチパネル式の高画質画面から壁画の細部を見ることの出来るモニターもありましたが、参加者の方は実物への思いがはやりモニターを触っている方は少なかったかな。この集合場所で映像解説でなく短時間でも高松塚古墳の保存修復について直接お話が伺えると嬉しかったかも。120人くらいで10分程度の見学です。10分?と短いように思われるかもしれませんが、窓越しの見学なのでそんなものかもしれません。入室前に希望者には拡大鏡も貸して頂きました。入口から「北壁玄武」見えます、見えます、しっかり見えました!「東壁女子群像」「西壁女子群像」、「西壁女子群像」がかの「飛鳥美人」です。カラフルなスカートの様な衣装が印象的な飛鳥美人!綺麗だ!憧れの飛鳥美人を間近にしてちょっとぼ~となっていたかもしれません。「東壁男子群像」「西壁男子群像」はよく見えなかったぁ。女子群像が手にする「如意(孫の手みたいなもの)」や「円翳(柄の長い団扇状のもの)」も、もっともっとしっかり目に焼き付けておくのだったと後悔しきり。壁画は切り取られて大きな石に載せられているわけではなく、古墳の石室を構成している切石の上に薄く漆喰を塗り、その上に顔料で描かれているのです。石室を展開図状態にして、それを見やすいように動かしてみました、な感じです。石室内の広さは、押し入れくらいで、それほど広くない、そして石棺もあったそうです。誰が埋葬されていたかはまだ解明されていません。ポンペイ壁画古代ギリシアのテラ島のフレスコ画が鮮やかな色が残っているのは、火山灰が乾燥材の役目をしたとのこと、敦煌の壁画も乾燥地域なのであれ程綺麗に残っている。日本の様に湿潤な土地で古墳が封印されてきて1300年も残ってきたことの方が奇跡ではないかしら。いったん扉を開けて黴に被われた壁画は、様々な試行錯誤、ご苦労の上でここまで、公開できる状態になったことにも「本当に大変でしたね」と関係者の方にお声掛けしたいくらいです。今も修復の緻密な作業は続いているそうです。そうしていつかこの壁画たちは、組み立て直され、もとの古墳へと帰っていくのですね。見学を終えて、「キトラ古墳壁画」の見学へ。

「高松塚古墳」の横を通って、文武天皇陵にご挨拶して、そうそう数年前もこの辺りの畑の中の路を歩いてキトラ古墳まで行きました。今のように携帯のナビもないままに。その時のキトラ古墳はまだブルーシートを被っている状態で、古墳に隣接して管理事務所らしき建物が食い込むように立っていました。

ところが、今回は昨年秋に「キトラ古墳壁画保存管理施設」 が完成し、高松塚古墳を含む「国営飛鳥歴史公園」のうちの「キトラ古墳周辺地区」として整備されていました。キトラ古墳は、高松塚古墳の発見当時から、似たような古墳があるとのお話です、が、明日香のあの辺りにいくと、どれもこれもこんもりと丸い形状はみんな古墳に見えてしまいます。高松塚古墳の苦い経験も教訓に、調査は慎重に進められました。調査が始まったのは、1983(昭和58)ファイバースコープで内部を“探査“(とHPに書いてあります。)し、「玄武」らしき壁画を発見!「国営飛鳥歴史公園」HP>「キトラ古墳」には、その後の調査については、一気に平成15年まで飛び、1998年(平成10年)全方位に向きを変えられるCCDカメラで探査し、青龍、白虎、天文図も発見!さらに2001年(平成13年)には、デジタルカメラで南壁の朱雀を確認し、獣頭人身十二支像の存在も確認!この探査調査機材の進歩にも注目です。高松塚の時の様に見つかったからすぐに発掘とはならなかったのです。文化庁が2003(平成15)年より石室内調査を開始。えっ!ここからが文化庁の調査開始なの?な感じですが、詳しいことは分かりません。兎に角、壁画が「脆く危険な状態」と判断し、2004(平成16)8月より、日本で初めての本格的な取り外しが行われ、元の古墳は、石室と同じ石材でふさぎ、埋め戻されました。「キトラ」とは、不思議な名称ですが、その由来の定説はありません。私は勝手に方角説なら面白いと感じています。「キトラ古墳壁画保存管理施設」は、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」の1階にあります。地下1階が入口で、古墳の中に入って行くような感じでしょうかしら。地下1階には、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」の展示室があり、確かに体験型の資料館で、古墳の立体模型や天文図の壁画をプラネタリウム風に展示され、解説がとても分かりやすいので、小さいお子様連れにもおすすめです。こちらは写真撮影OKです。

受付を済ませて1階展示室へ。収蔵庫と展示室が繋がっていて、収蔵庫内で移動するだけで展示できるのでしょう。今回の公開は、北壁の「玄武」が展示されていました。今回も拡大鏡を貸して頂き、くっきりと見て取れます。亀と蛇が合体したような形状です。当日頂いた資料によれば、「玄武」の「玄」は黒色を意味し、「武」は鎧を身につけて武装した動物、つまり亀を指すとされます。」「季節は冬、方角は北、色は黒を象徴し、蛇が亀に絡みつく姿で描かれるのが一般的。古代中国では亀を雌、蛇を雄と考えていた」ともいわれるそうです。今回は冬の公開なので「玄武」となったようです。しかし以前見た時よりも「玄武」が小さく感じました。以前の公開の時は、「玄武」周辺だけを切り出した、そこを展示公開したようです。全壁面が、64か月もかけて慎重に取り外され、全部で1,143片にもなったそうです。それを壁面ごとにジグソーパズルよろしく再度復元されたわけです。四神の下には、獣頭人身の十二支が描かれています。玄武の下には、北壁中央に子像があり、その横に丑像がありますが、側にある配置図から辛うじて分かるほどです。丑が持っている赤く長い棒状の物がよく分かりました。石室内からの出土品も別の展示ケースで見ることが出来ました。「キトラ古墳壁画保存管理施設」は、壁画公開も考慮しての設計で、高松塚壁画の見学よりスペースもあって、10分という見学時間ながらもゆっくり見ることが出来ました。石室内からは被葬者と思われる人骨と歯も出土しているとのことですが、それが誰なのかは分かっていません。

高松塚古墳、キトラ古墳の壁画と同様な壁画は中国や朝鮮半島にも見られ、またこの地域には多くの渡来人が住んでいたらしく、大陸からの渡来人が、あるいは渡来人の指導を受けて描かれた能性が大です。キトラ古墳の天井には、東の斜面に金箔で太陽が、西の斜面に銀箔で月が表され、天井の平坦面には円形の中国式天文図も描かれています。本格的な中国式星図としては、現存する最古の例だそうです。キトラに描かれた四神と十二支は埋葬された人を守護する役目を担い、天井の星座は次の世への道しるべだったのでしょうか。壁画の描画や彩色の技術も高く、天文の知識も本格的とあって、誰が描き、誰のために描いたのか古代へのロマンは広がります。

先にも書きましたように私は以前キトラ古墳壁画を飛鳥資料館で2度見た記憶があり、飛鳥資料館へこれまでの公開状況をお尋ねし、丁寧な回答を頂きました。平成18年から23年まで5月に春季特別展が、後26年は1月に「キトラ古墳壁画発見30周年記念展」が、27年は秋季特別展が開催されています。平成23年と27年は、天井天文図関連の展示ですが、天井天文図の実物の展示ではありません。展示するにも難しい問題があるのかもしれません。飛鳥資料館では、昨年の「キトラ古墳と天の科学」で展示された実物大の陶板を現在常設されているそうです。次は「天井天文図壁画」の実物がが見たい!

地下の展示をもう一度見てから、キトラ古墳を見に行きました。「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」からつながる丘の斜面にボタンの様にありました。へぇ~こんな形をしているのかと。下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mほどの二段の円墳、さらに上ると眺望が開け明日香が一望できます。石室の石が切り出された二上山も確認しました。

そのまま、最寄り駅の「壺阪山駅」まで。駅前の地域は保存地区で旧街道の家並みが残っていました。歩きに歩いた1日でした。

【参考】
・文化庁HP[高松塚古墳・キトラ古墳]:http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/takamatsu_kitora/
・奈良文化財研究所 飛鳥資料館HP:https://www.nabunken.go.jp/asuka/index.html
・奈良文化財研究所FB:https://www.facebook.com/nabunken/
・キトラ古墳壁画保存管理施設HP:http://www.nabunken.go.jp/shijin/about/#paragraph_01
※修復保存のお仕事は未来への懸け橋だと感じています。
学芸員や修復のお仕事したかったなぁと個人的に憧れのお仕事ですが、極度に不器用で手先が使えず、
ガサツな私にはとても無理な根気のいる緻密なお仕事です。

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MUSEUMコンシェルジュになりたいが、ARTには全くの素人。山間部育ち、専攻は「東洋史」、ただただ美術館へお出かけするのが大好きな私が、阪神間の美術展、アート関連施設やアートイベントなどについてアートへの思いを綴ります。つたない文章ですが、読んでくださる方々が、お出かけしてみようかなと思ってくださるきっかけになればと思っております。

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